目黄不動の混乱と矛盾
現在、文献も含めて「目黄不動」と称する場所が6箇所ある。これはどうやら他の4色とは意味合いが違う(薄い)ように思われる。
天台寺門宗総本山・三井の園城寺及び、天台宗門跡寺院曼殊院(曼殊院宮)には、面白い逸話が残っている。智証大師円珍(814〜891)が感得した『黄不動』である。伝承では、入唐の途で、琉球に難破した話である。当時の琉球国は、「人食い」なる原住民族の風習があったそうで、円珍が原住民に襲われそうになったとき、この黄不動が現れて救われた、とある。その黄不動とは、金色に耀き、不動明王に必要な条帛(細い帯状の懸袈裟)がなく、更に「おん まいたらしてい そわか」の調伏陀羅尼を授けた、とある。この真言を円珍が誦すると、原住民の戦意が喪失し、難破した船が動きだして難を逃れた、という話である。
目黄不動と後世に称される位置には全く以って、根拠のない配置である。こうした秘密裏に行われた調伏祈祷を、代々の宮門跡が伝承的に行った事実があったならば、東京に遷都した以上、この調伏祈祷の伝統を秘密裏に抹殺する必要がある。目黄不動の混乱と矛盾や、一見正当且つ大儀名文が体裁よく整ってはいるが、不可解な寺院や神社の急な移転もある。また秘仏として必要以上の由来や文献が歴史から消えたことを考慮すると、明治新政府にとっては不都合な歴史認識と言わざるを得ない。
もし天海僧正が陰陽道・仏教のエキスパートならば、「なぜ徳川幕府鎮護国家の大法で、わざわざ「調伏曼荼羅」を江戸に作るのか」という疑問が根本的に残る。道教の研鑽を積まれた方ならすぐに判断できるだろうが、天゙地府祭や四方拝の法則に配置されていることが不可解である。天゙地府祭は、真言宗では「即位灌頂」ともいうのだが、調伏には不動尊明王の慈救呪を総じて用いる(五大明王法)とあり、これを解釈すると不動明王以外の仏尊をあえて色で方陣を引いて不動明王にしたと考えてもよい。
そう考えると、天海の意思とは別の作用が働いたことはいうまでもなく、皇族や京都から来た「都人」にすると、時の最高権力者である征夷大将軍を説得しうる材料として「天海僧正の御遺志」となったとも受け取れる。その調伏風水を画策し、さらに五大将軍綱吉が莫大な財政を神社・仏閣建立に費やしたことに繋げれば、物心両面で徳川幕府調伏の理由の矛盾点は軽減される。
多くの「江戸五色不動」の由来を紐解いている人々の文献を見ても、歴史認識や残った文献・歴史書のみでしか判断する至って主観的なものが多いのに残念である。ことに、日本という国は、政治と宗教が表裏一体であることを忘れてはならず、民俗学的・宗教学的見地が時代の見えない部分や光が差さない部分を照らすこともある。宗教に関しても、現在日本に伝播している『大蔵経』は、宗派・教団で解釈が様々であり、飛躍的に各教団で学問的に整理・体系化されたのが江戸中期であることを考えると、天海僧正の江戸初期にこれほどの飛躍した解釈を必要とするものはあってはならないのである。
五大明王(ごだいみょうおう)(法)
五大明王とは、不動明王、および降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王と、金剛夜叉明王(天台密教では烏樞瑟摩明王(うすさまみょうおう、烏芻沙摩とも書く)に置換える)のことで、もともと鳩摩羅什(くもらじゅう)訳『仁王般若波羅蜜経』(旧訳仁王経)に説かれていた「五大力菩薩」を元にし、不空(ふくう)訳『仁王護国般若波羅蜜』(新訳仁王経)において五大明王に置き換えた仏尊である。当初は、『仁王経法』や天皇陛下の御即位の際して修法される『後七日御修法』のように鎮護国家を祈る極めて公的な修法だったが、時代とともに「息災」・「増益」・「調伏」など個人的な目的へ変遷し信仰対象となった。
五大明王は「悪しき衆生の煩悩を打ち破り悟りの世界に導く仏尊」とされ、その姿は如来の慈悲心から生じた非常に恐ろしい形をあらわす。その姿は定まったものはなく、根本経典にも多少の誤差や異形も多く記されている。
(1)不動明王(ふどうみょうおう)・・・梵名アチャラ・ナータ(=「動かない守護者」)、一面二臂(顔が一つ、腕が二本)で右手に剣、左手に索を持つ。大日如来の教令輪身として単独で信仰されることが多く、一番知られている明王。
(2)降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・・・梵名トライローキャヴィジャヤ(=「三世界の王者を降ろす者」)、 三面八臂で大自在天(シヴァ神)と大自在天妃(ウマ女神)を踏みつけている。阿しゅく(門*人*人*人)の権化で、欲望・怒り・愚かさの三毒を滅ぼす。
(3)軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・・・梵名クンダリー(=「とぐろを巻く者」あるいは「軍荼(水瓶)を持つ者」・「甘露の壺」)、一面八臂で各手足に蛇を巻き付けている。宝生如来の権化で、不老不死の霊波を発することから、息災延命の霊験をもつ。
(4)大威徳明王(だいいとくみょうおう)・・・梵名ヤマーンタカ(=「怨霊を破滅する尊」)、 六面六臂六足で水牛に乗る。阿弥陀如来の権化にして「降閻魔尊」との異名もあり、単独では戦勝祈願や調伏として信仰。
(5)金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)・・・梵名ヴァジュラヤクシャ(=「金剛杵を持つ神霊」)、 三面六臂で正面のみ五目となる。烏樞瑟摩明王と同体ともいわれ、不空成就如来の権化で金剛薬又との異名もあり、単独では調伏・息災として信仰。 ※烏樞瑟摩明王・・・梵名ウッチュシュマ(=「穢れを清める尊」)。火頭金剛の異名あり。単独では、禅宗寺院の厠(トイレ)の不浄を清浄にする霊験あり。
このほか、『大妙金剛大甘露軍孥利焔鬘熾盛仏頂経(大妙金剛経)』を根本経典とした、五大明王に、無能勝明王(むのうしょうみょうおう)・大輪明王(だいりんみょうおう)・歩擲明王(ぶちゃくみょうおう)を加えた「八大明王」、孔雀明王(くじゃくみょうおう)・太元帥明王(だいげんすいみょうおう)・馬頭明王(ばとうみょうおう=馬頭観音)・愛染明王(あいぜんみょうおう)などが有名である。
ちなみに、歌舞伎の市川団十郎や市川海老蔵の祖先が元々千葉県成田市に鎮座する『成田山新勝寺不動明王』の近くに住んでおり、江戸で活躍の舞台を移しても、成田山の不動明王を信仰していて、定期的に興行を行ったことや、江戸に成田山の御分霊を移すことに多大な功績もあり、『成田屋』の屋号がある。
・中央 大日大聖不動明王(中央:黄)
・東方 降三世明王(青龍:青)
・南方 軍茶利明王(朱雀:赤)
・西方 大威徳明王(白虎:白)
・北方 金剛夜叉明王(玄武:黒)
(五大明王法の調伏における分担)
不動明王・種類を問わず調伏全般に汎用。
降三世夜叉明王 ・天魔
降三世夜叉明王・障碍神
大威徳明王・人魔、悪毒龍
金剛夜叉明王・煩悩
※真言は、総じて不動明王の慈救呪(中呪)
「納莫三曼多 縛曰羅赧 戦拏 摩訶路灑拏 娑破托也 吽怛羅托 悍漫」
「ノウマク サンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」を用いる。
安鎮法(あんちんほう)
「安鎮国家法」とも呼び、国家規模の地鎮祭のことである。家屋を新築する時に行なう、密教の修法(シュホウ)のひとつ。皇室・将軍家の邸宅の新築などに際し、その建物の安穏や除災を祈り、併せて「鎮護国家」をも祈願して修する。
修法の本尊は不動明王・葉衣(ヨウエ)観音・八字文殊菩薩(ハチジモンジュボサツ)の3種だが、通常は「不動明王」を本尊として、四臂(シヒ)不動明王と方位をつかさどる八方天を勧請(カンジョウ)し、万法発生の吽字(ウンジ)を観じ、鎮宅の呪(ジュ)を誦する。結願(ケチガン)後、安鎮曼荼羅(マンダラ)を新しい寝殿の中心梁の中に収めるのが習い。一般の家屋では鎮宅法(チンタクノホウ)、堂塔伽藍の建立では地鎮法(ジチンホウ)、皇室・将軍家の場合には安鎮法が行われる。不動鎮宅・葉衣鎮宅・八字文殊鎮宅で、不動鎮宅・葉衣鎮宅は新築家屋、八字文殊鎮宅は中古宅に用いる。
安鎮曼荼羅あんちんまんだら・・・密教の安鎮法(アンチンホウ)で用いられる『安鎮軌』の本尊図をいう。『不動安鎮軌』に基づき、内院に二臂(ニヒ)不動明王、中院八方に四臂(シヒ)不動明王、外院(ゲイン)に八方天を配する。
地鎮祭・・・仏教・修験道・神道など宗教や宗派や時代による違いがあり多様。おおむね土地または建物の中央となる部分に、南向きあるいは東向きに祭壇を設置(造り)、その土地に関わる神仏たちに建築する事を伝え工事の安全を祈る。式次第はおおむね以下の通り。
(1)式場・祭壇・参列者・土地の四方などを清める
(2)式の目的を告げる祭文や経文を読む
(3)設計者、建築主、施工者による鍬入(くわいれ)
(4)参列者が順次、御幣や玉串などを供えて祈る
(5)お供えしたお酒などで、参列者一同が祝う
神仏を招いて行う式で、式場となる部分はきれいに掃き清める。丁寧な場合は、式場全体、または、祭壇を作る範囲に清砂(加持砂)をまいて整える。祭壇を作る部分は、四隅に柱を立てて縄を張り、結界としての区切りをつける。結界に使う柱や縄は、宗派によって材料や、結界の標識に使う御幣の形などが異なる。(神道や修験道では、四隅に「忌竹」を立てて、注連縄を張り、紙垂(しで)をつける。このとき、神道は白色三垂・方四枚の合計十六枚。修験道の流派によっては、白紙垂と併せて五色(赤・黄・青・白・紫(黒)の紙垂を用いる。)
お酒、お米、海の幸、山の幸をお供えする。建物が末永く使える事を祈り、基礎の下に色々な宝物を埋める。埋める物を一般に「鎮物(しづめもの)」または、「鎮壇具(ちんだんぐ)」といい、建物の中央に当たる部分に埋める。内容は時代や形式によって様々だが、古式に則れば、{五穀、五色玉、金、銀、珊瑚、ルリ、琥珀、メノウ、貨幣、鏡、剣}など宝物にふさわしい大切な物や高価な物が選ばれ、またそれを収める箱なども丁寧な細工を施したものが使われている。)(密教系では密教法具や曼荼羅/お香などを収める場合が多い。)(現在は高価な物そのものではなく、それらを模した物を使うのが一般的。基礎工事の方法も変わり、地鎮祭当日ではなく、基礎の最深部となる所に後日埋めることもある。
堅牢地神(けんろうじしん)あるいは地天ともいい、地天は十二天の一つ。密教では、お不動明王や地天を中心に供養をして「地鎮法」とする。観音様や文殊菩薩が選ばれるのは、女性的な雰囲気から想像する「大地=万物を生む=母」から豊作・繁栄・寿命などを強調する意味がある。
安鎮家国法(大安鎮法)・・・天台密教が誇る『四箇大法(しかのたいほう)』として位置づけされる修法である。修法が複雑極まりないこともあって、大正時代から昭和後期まで半世紀以上中断した事実もある。「七仏薬師法」・「普賢延命法」・「熾盛光法」・「鎮将夜叉法」を四箇大法として、この「大安鎮法」を加えて『五箇大法』と称する場合がある。大安鎮法の儀式の一つに、「穴中作法」があり、一般の
「鎮物」にあたるものとして、五穀(=護国)・五香・五色幣・七宝・銭・守刀などの『九種物』を中心と八方位に埋める。大安鎮法にも調伏の真言が用いられる。
その他資料
【日光山輪王寺略歴】
766(天平神護2)年:勝道上人により開創。深沙大王(深沙大将)と二頭の大蛇を祀る。
767(神護景雲元)年:二荒山神社創設。(補陀洛山(ふだらくさん)=二荒山(ふたらさん)・二荒(にこう)=日光(にっこう)などの音写)
1617(元和3)年:家康死去に伴い日光山輪王寺を建立。
1653(承応2)年:3代将軍徳川家光の霊廟、「大猷院(だいゆういん)廟」建立。
1655(明暦元)年:後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜。後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺。
以後、輪王寺の住職は、「輪王寺門跡」・「輪王寺宮」として,関東に在住の法親王(皇族=親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務める。
※「三山管領宮」・寛永寺門跡・天台座主・輪王寺門跡を兼務したことによる。
【東叡山寛永寺円頓院略歴】
1622(元和8)年:天海僧正に伊勢津藩主藤堂高虎・弘前藩主津軽信牧・越後村上藩主堀直寄の下屋敷(現在の上野公園)の地を与える。
1625(寛永2)年:本坊の建立。この時に東叡山寛永寺と称する。
1627(寛永4)年:法華堂・常行堂・多宝塔・輪蔵・東照宮など建立。
1631(寛永8)年:清水観音堂・五重塔などが建立。
1643(寛永20)年:天海僧正没、2世貫主に公海が入山。
(寛永寺貫首(輪王寺宮)歴代)
(1)天海
(2)公海(久遠寿院)
慶長12年12月12日(1608年1月29日〜元禄8年10月16日(1695年11月22日)。花山院忠長の子。
1620(元和6年):天海僧正に入門。
1643(寛永20)年:寛永寺住職に晋山。輪王寺など天台一宗を管領。
1647(正保4)年:僧正補任。
1647(正保4)年:大僧正補任。
1665(寛文5)年:天台宗京都五門跡「毘沙門堂」を再建。
1695(元禄8)年):没。
(3)守澄法親王(本照院)
寛永11年閏7月11日(1634年9月3日)〜延宝8年5月16日(1680年6月12日)。
1634(寛永11)年閏7月:後水尾天皇の第3皇子として誕生。初代輪王寺宮門跡。東叡山・日光山貫主。天台座主。
1680(延宝8)年、薨去。
(4)天真法親王(解脱院・天眞法親王)
1663〜1690、在職1680〜1690。後西天皇第5皇子。
(5)公弁法親王(大明院・公辨法親王)
寛文9年8月21日(1669年9月16日)〜正徳6年4月17日(1716年6月6日)。
1669(寛文9)年:後西天皇の第6皇子として生まれる。
1674(延宝2)年:公海の入室・受戒。
1678(延宝6)年:親王宣下・出家得度・法親王。
1716(正徳6)年:薨去。
(6)公寛法親王(祟保院)
1697年〜1738年。東山天皇の第3皇子。
1708(宝永5)年:得度・覚尊と称す。
1713(正徳3)年:公寛と改称。
(7)公遵法親王(随自意院・随♀y院(・再任))
1722〜1788。中御門天皇第2皇子。
(8)公啓法親王(最上乗院)
1731〜1772年。閑院宮直仁親王御子。
(9)公遵法親王(安楽心院)
1761〜1803年。閑院宮展仁親王御子
(10)公延法親王(安楽心院)
1761〜1803。閑院宮展仁親王御子。
(11)公澄法親王(歓喜心院)
1775〜1828。伏見宮邦頼親王御子。
(12)舜仁入道親王(自在心院)
1788〜1843。有栖川宮熾仁親王御子
(13)公紹法親王(普賢行院)
1814〜1846。有栖川宮韶仁親王御子
(14)慈性入道親王(大楽王院)
1812〜1867。有栖川宮韶仁親王御子
(15)公現入道親王(北白川宮能久親王)
1846〜1895。
1869年:伏見宮家復帰。
1870年:還俗。
実兄に仁和寺宮純仁親王(京都仁和寺門跡)小松宮彰仁親王(高尾山薬王院大本堂の扁額眞筆)がいる。